メッセージ・説教

  • 2016年5月15日 聖霊降臨節第一主日礼拝

    投稿日:2016年05月17日

    「聖霊が生きる教会」
    使徒言行録 2章1節~13節

    ペンテコステおめでとうございます。
    イエスさまが復活されたイースターの出来事から早くも50日が経ち、再びこの喜びの日を迎えることが出来ましたことに、心から感謝するものであります。

    先ほどお読みいただきました御言葉は、ペンテコステに必ず読まれるといっても過言ではないほど有名なところでありましたが、この部分に於いて、未だに疑問と言いますか、理解できないと思われていることが残されています。
    それは、聖霊の姿を現している記述である「炎のような舌」という存在です。ペンテコステの象徴とも言えるこの存在はわたしたちにとっても、理解できない不思議なものではないでしょうか。ある人が描いた絵には、本当に炎のように、しかし明らかに「舌」という形が人々のおでこに描かれており、少々不気味さをかもし出しておりましたが、この時、この存在をその身に受けた弟子たちはどういった気分でこの聖霊を受け入れていたのでしょうか。
    ある人は、この時の弟子たちが一時意識が失われていたとも考えています。一種のトランス状態と言いますか、わたしたちはあまり目にする機会はありませんが、いわゆる「異言」が語られているような状態であったと考えているわけです。
    確かにこの時の弟子たちが正常な状態であったと断言することは出来ません。ここでは「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と言われていることから考えても、意味不明の言葉がここで語られていたとも想像することが出来るからです。自分が今まで口にすることはおろか、耳にすることさえしたことのない言葉を話し出したとしたら、確かに人は混乱させられることになるのかも知れません。
    ですから、この時の弟子たちも「そのような状態に陥った」と考える人の考えは一理あることだと思います。

    ところが、この後の彼らの行動を見ますと、そのような状態であったとは一概に言えなくなります。特に14節からは、弟子たちの代表者でもあったペトロの説教が始まりますが、そこではおかしなことがまったく語られることなく、むしろ理路整然に語られていきます。このようなことから見ましても、彼らが興奮状態で自らの理性を失っていたとも思われませんし、13節で人々が語っていたように「酒に酔っている」わけでもなかったのです。
    この彼らの行動を良く見てみますと、ここで彼らは一つのことを契機にまったく違った行動をとっていることに気付かされます。それは、この「激しい風が吹いてくるような音」がし「炎のような舌が」留まったあとに起こってくることでありますが、この出来事が起こる前、彼らは「一同が一つになって」集まっていました。
    「一同が一つになる」ということは一つの場所に集まり、同じことをしていたということです。彼らはこの時何をしていたのか、それは良く分かっていませんが、ただ単に人の目を避けるために集まっていたとも考えられますし、少し信仰的な眼で見れば、祈りあって礼拝のようなことをしていたとも考えられます。
    しかしどちらにしろ、彼らは外に出て人々と一緒に礼拝をしようとは考えてはいません。先ほども申し上げましたが、収穫感謝の時であったペンテコステの礼拝は、この時、ユダヤ教の中心地であり、その信仰の象徴とも言われたエルサレム神殿で行なわれておりました。
    5節で「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた」
    と言われていますが、これは住んでいたというよりは最も広い意味でのユダヤの国の端から端に至るまでの人々がこの時、このエルサレムに集まっていたことを意味しています。特にユダヤ教におけるペンテコステは他の過ぎ越しや仮庵の祭りとは違い一日限りのことでありましたので、街には人が溢れていたことであると思うのですが、そのような人々に混ざって、礼拝をすることを彼らは決して考えていなかったのです。
    ところが、この出来事の後、彼らはこの町中に溢れていた大勢の人々に向かって語りかけています。つまり彼らは人前にその姿を現し、その口で神様の福音を語り始めたというのでありました。このように彼らが変えられたのが、聖霊の働きであった、それ以外にはどう説明もすることが出来ないほど不可思議な出来事であったのでした。
    この彼らの姿を見た者たちも同じように不思議な思いにさせられています。
    「あっけにとられる」、「驚き怪しむ」、「驚き、とまどう」など、そこでは人々がその姿を見て混乱している様が記されています。
    人々にとって「言葉」がつなぎ合わされるということは、それほどに大きな驚きであったのです。
    言葉というものはわたしたちにとって一つの繋がりを表わすものです。自分が生まれ育った土地とはまったく違った土地で自分と同じ言葉を聞いたとすれば、わたしたちはその相手に親近感を持ちます。そしてそこでは言葉だけではなく、文化や風習と言ったわたしたちの生活の全てに至るまで同じものを共有する仲間として認識するようにさえなるのではないでしょうか。
    聖書に於いて、この言葉が統一されるという出来事はこの場面、ペンテコステの出来事でのみ記されているものです。言葉が統一され、一つの共同体が形作られていく場面はこの時、聖霊によってこの出来事が成し遂げられていく、この時しかないのです。そして、この時始められた教会の働きが、いまのわたしたちのこの時代にまで続き、生き続けているのです。
    ただし、このことは聖書によれば、元々一つであった民が散らされたという出来事があったことがもとにはあります。旧約聖書創世記11章にはバベルの塔の物語がありますが、あの物語と読むと、わたしはまさに現代に生きるわたしたちのことを言われているような気がしてなりません。
    創世記11:3にはこうあります。
    彼らは、「レンガを作り、それをよく焼こう」と話し合った。
    石の代わりにレンガを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
    彼らは「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
    「石の代わりにレンガを」、「しっくいの代わりにアスファルトを」、
    これは人間が文明を手に入れたことを意味しています。そして、その文明を手に入れたことによって、「傲慢」になったことがそこには記されていました。人々の傲慢、それは、彼らがもはや神を無視するかのような考えを持ったことです。
    バベルの人々は、「散らされることのないようにしよう」と言っておりますが、それを自分たちの技術や文明によって守ろうとしたのです。そこで神さまに頼るのではなく、自分たちの力で何とかしていこうと考えたのです。そして、そのことを象徴することとして、「点」、神さまのいるところにまで自分たちは行くことが出来る、自分たちが神さまに並ぶことが出来ると考えてしまったのです。まるでいまの世に生きるわたしたちが思ってしまうようなことが、もうすでに旧約の時代に見られていたのです。
    だからこそ、彼らは散らされることになります。神さまは
    「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。」
    「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」
    こう言って、人々を混乱に陥れ、分かれ分かれにされたのです。

    このバラバラにされた民が一つとされた出来事、それがこのペンテコステの出来事です。長い時を超えて、ようやく一つとされた民がそこに生まれ、新たな共同体として歩み始めた、それがこの時成し遂げられたのです。

    わたしたちは、この4月から60年目の歩みのスタートを切ることができました。60年という時間は決して短いものではありません。確かに、日本ではもっともっと長い歴史を持った教会があります。世界を見れば何百年という歴史を刻んでいる教会もあります。しかし、この地で建てられた教会も、世界の至るところにある教会にも、等しく与えられているものがあります。それが、「聖霊」という存在であり、この存在があるからこそ、わたしたちの教会はこの年月の間この地に立ち続けることができているのです。
    このことに心からの感謝を表わしてまいりたいと思います。これまでの歩みの中で、わたしたちは本当に神さまの恵みでしかありえないという出来事をたくさん体験させられてきたはずです。日曜日の礼拝が守られてきたこと、このことだけでも決して当たり前のことではありません。このこと一つとっても、わたしたちに神さまの恵みが満ち溢れていることを感じさせられなければなりません。そして、そして、本当に必要な物はいつも与えられ、良い時に、良い術が見つかり、全てが今に続く良き姿として続けられてきたのです。
    このこと全てに聖霊が働いてくださった、そしてこのことにより全てが成し遂げられてきた、そのように言うことが出来るものなのです。
    今日のこの礼拝は、わたしたちにとって、本当に感謝をささげるという事を改めて思わせられる、そんな礼拝ではないかと思います。
    わたしたちの生活は、この教会で聖霊の働きによって支えられている、そしてこのことによってわたしたちは神さまと繋がり、イエスさまと繋がり、信仰の友と繋がり、生きていくことが出来るのです。
    この場所で歩ませられていく恵みに心からの感謝をささげ、わたしたちに寄り添って共に歩いてくださるイエスさまと、新しい歩みの第一歩を歩みだしてまいりましょう。


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